日本の若者は「準備された市民」がいない!?

 私が最近夢中になって読んでいる本の一つに、『オーマイニュースの挑戦』がある。韓国にあるインターネット新聞で、「市民はみんな記者」をモットーに創設され、常任記者の他に、多くの市民記者が毎日記事を書いている。2002年の大統領選挙ではノムヒョン大統領の劇的な勝利の立役者になったことで知られている。この本の感想は後日改めてするとして、アサヒドットコムでも「オーマイニュースの挑戦」についての批評が書かれてあった。



オーマイニュースの挑戦 韓国「インターネット新聞」事始め [著]呉連鎬(オ・ヨンホ)
[掲載]2005年05月29日
[評者]佐柄木俊郎

 韓国で世論形成の新たな担い手として五年前に登場し、盧武鉉ノムヒョン)大統領誕生の原動力になったインターネット新聞のことは、日本でもようやく知る人が増えてきた。「市民みんなが記者」を合言葉に「保守的な紙新聞」と戦ったその足跡を、軽妙な筆致で綴(つづ)ったベストセラーの翻訳である。

 著者はそれを発案し、主宰してきた四十代の元雑誌記者。いまや社員六十七人、市民記者三万六千人になった世界最大のネット新聞の成功物語は、明るい刺激と教訓に満ち、未来メディアへの想像をかきたてる。世界新聞協会の大会にゲストとして招かれ、ソウルの本社に視察の人波が絶えないのは、読者の頭打ちに悩む旧来メディアの危機意識の表れでもあろう。

 「オーマイに続け」と、日本でも市民参加型ネット新聞は増えつつある。しかし、まださほどの伸長がみられないのは、若者世代に著者のいう「準備された市民」が乏しい故だろうか。



 「準備された市民」はオーマイニュースが韓国で成功した要因の一つに上げている。この記者は日本の若者にはこの「準備された市民」が少ないと言っている。このことは、大学生の私が、また『オーマイニュースの挑戦』を読んで感動し、現実に日本で起こればと、期待で胸を膨らませた私ににとって、大きな問題だと感じた。

 確かに日本では、新聞を読む学生が少なくなってきているといわれているし、以前のように学生デモが繰り広げられるわけでもなくなった。私自身、デモは一度も経験したことがない。自民党の圧勝で終わった今年の総選挙では、どこかのおじさんが勝手に郵政民営化を争点にし、一番議論されるべき憲法改正問題はどこかへ流れていった。そんな自民党党首のおじさんが、大きな声を出すたびに多くの若者が「かっこいい」と思った。市民が争点を作ることができなかったこと、メディアが二大政党と郵政民営化しか市民に選挙の争点として与えることができなかったことが問題だった。

 しかし自分が主体となって行ってきた日韓学生フォーラムでは、多くの学生が積極的に日本の歴史、政治、社会を学ぼうとする姿があった。ここでは韓国の学生と一緒に感じ、触れ、問題を見出す努力を感じることができた。だが、ここにも問題がある。日本の歴史、政治、社会を学ぶことは、何かとてつもなく大変で特別な作業をしているかのうような印象を受けたからだ。その原因はどこにあるのだろう。私たちは別に政治のことを考えなくても暮らしていける。歴史を知ることをしなくてもなに不自由なく生活できる。という落胆的な価値観が社会を充満しているからではなだろうか。そんなことはメディアや物好きな学生、政治家に任せておけばいい。そう考える学生が多いからではないだろうか。

 実際日韓学生フォーラムで活動した体験としても、沖縄戦争の出来事を聞いたり、靖国神社へ見学しに行ったり、民族学校へ行って討論などもしたが、「初めて知った」「そんなことがあったんだ」「大変なことだと思う」など、感想を述べる程度で終わるケースが多い。私はこのことを「修学旅行現象」と呼ぶ。修学旅行では、沖縄の平和祈念館、長崎・広島の原爆資料館などがお決まりのコースとなっている。今までの数を数えると、どれほどの人がその場所を訪れたのだろう。その若者が何を感じて帰ってくるだろう。結果は「おいしかったご飯」「まくら投げ」「おみやげ選び」・・・これでは何のためにその場所へ行っているのかわからない。彼らの殆どは、先生に強制的に感想文を書かされる。そうするとさっき言ったような遠くから傍観しているような感想にしかならない。

 そう考えていくと、今現在メディアから流される情報がどんなに大切な内容であったとしても、若者読者に影響を与えることはできないだろう。学校で学ぶ日本・世界史の歴史や社会はもはや受験勉強以外には役立たずである。

 未来が暗く見えるのでこのくらいにするが「準備された市民」を増やすためにはどうしたらよいのだろう。今日本で最も大切な課題ではないだろうか。